同盟国アメリカ 黒船来航から現在までの歴代米国大統領と日米関係史   編集:石戸勝夫                 
       
マッカーサー元帥と東京湾の戦艦「ミズリー号」上での降伏文調印
黒船来航とペリー提督
   第11代
  ジェームズ・ポーク
  James Knox Polk
  民主党
①1845.03.04~1849.03.04
1846年にはアメリカ東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが通商を求めてきたが、、江戸幕府はこれを拒絶している。
   第12代
  ザカリー・テイラー
  Zachary Taylor
  ホイッグ党
①1849.03.04~1850.07.09   
   
   
   第13代
  ミラード・フィルモア
  Millard Fillmore
  ホイッグ党

①1850.07.09~1853.03.04
米国のアジア市場への進出・・・産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジア中国大陸への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。アメリカは1833年シャムマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。1835年には清・日本との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務をおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。
ペリーの計画・・・ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画をウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出していた。そこで彼は、以下の様に述べている。「・任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
   第14代
 フランクリン・ピアース
 Franklin Pierce
 民主党
①1853.03.04~1857.03.04
1853年7月 ペリー艦隊来航(黒船来航)、江戸幕府に開国を迫る。
1856年7月、アメリカ領事タウンゼント・ハリスが修好通商条約締結のため来日。
 
   第16代
 エイブラハム・リンカーン
 Abraham Lincoln
 共和党
①1861003.04~1865.03.04
②1865.03.04~1865.04.15

1861年ロシア軍艦対馬占領事件
   第17代
  アンドリュー・ジョンソン
  Andrew Johnson
  民主党[
①1865.04.15~1869.03.04

明治の始まり
 
   第24代
 グロバー・クリーブランド[7]
 Stephen Grover Cleveland
 民主党
①1893.03.04~1897.03.04
日清戦争・・・1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月にかけて行われた主に朝鮮半島李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国大清国の戦争である。    

三国干渉・・・ロシアとドイツはイギリスにも共同行動を提案したが、世論を理由に干渉を拒否し、アメリカもまた、日本に好意的だったが局外中立を崩さなかった。 
   第25代
 ウィリアム・マッキンリー
 William McKinley
 共和党
①1897.03.04~1901.03.04
●門戸開放政策・・・アメリカは伝統的にモンロー宣言による孤立主義の立場を取っていたが、1890年代フロンティアの消滅に伴い、中南米、カリブ諸島、太平洋上の島々へ急速に植民地を広げ、自国権益を拡大していった。アメリカは以前から大規模な市場を持つ中国大陸への進出を狙っていたが、既にイギリス、フランス、ロシア、ドイツ、日本などの列強によって市場は独占はされていたため、介入の余地がなかった。そのような状況を打開するためにアメリカが提唱したのが門戸開放主義だった。
 
1898年にアメリカはハワイ併合し、米西戦争によってフィリピングアム島を獲得した結果、東アジアにおける主要勢力の1つとなった。ヨーロッパ列強による中国分割が激しくなり、日本がそれに参加しようとしていた時期、アメリカは中国における他国と同等の特権を維持しようとしていた。
②1901.03.04~1901.09.14
 
   第26代
 セオドア・ルーズベルト
 Theodore Roosevelt
 共和党
①1901.09.14~1905.03.04
日露戦争・・・大日本帝国ロシア帝国[7]との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

②1905.03.04~1909.03.04
ポーツマス講和会議
●日露戦争の結果、ロシアに代わって満州南部における利権を獲得した日本は、アメリカに対し満州では門戸開放政策を維持すると伝えた。1909年にアメリカは、門戸開放の維持の為に、日本では新4国借款団と呼ばれる、中国が鉄道を敷設するのに必要な借款を工面する為の日本・アメリカ・イギリス・フランス四カ国からなる銀行集合の形成を誘導した。この目的は中国進出を日本に独占させないことであったが、アメリカは1913年に、これが中国の国内統治の完全性を欠くことになると主張して、これを脱退した。 
   第27代
 ウィリアム・タフト
 William Howard Taft
 共和党
①1909.03.04~1913.03.04
 
   第28代
 ウッドロウ・ウィルソン
 Thomas Woodrow Wilson
 民主党
①1913.03.04~1917.03.04
第一次世界大戦に参戦した日本・・・1914年(大正3年)、日本は日英同盟によってドイツ帝国宣戦布告する(第一次世界大戦)。翌年には中国に対し対華21ヶ条要求を提出する。これに対し、米国務長官ブライアンは要求の一部に不同意の覚書を日本側に手渡す。終戦間際の1918年(大正7年)にはアメリカが、ロシア革命によってシベリアに取り残されたチョコ軍団救援のためウラジオストクへの日米共同出兵を提議し、シベリア出兵がはじまった。しかし日米間の連絡はうまくいっておらず、同年11月にはアメリカより日本のシベリアへの出兵数・シベリア鉄道占領の件で抗議を受けた。

②1917.03.04~1921.03.04
ロシア革命
1917年に日米間で、中国における門戸開放は尊重されるが、アメリカは日本の中国における特殊権益を認めるという石井・ランシング協定が結ばれた。しかし1931年からの満州事変及び満州国建国によって、門戸開放政策は崩壊した。●戦後1919年(大正8年)、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した理念に基づいてパリ講和会議が開催される(日本全権は、西園寺公望牧野伸顕ら)。同年2月には国際連盟規約委員会で日本代表は人種的差別撤廃提案を行い、過半数を超える国の賛成を得るものの、ウィルソンが全会一致による採択を突然採用したため否決された。一方で5月には山東省のドイツ利権が日本に継承されることが了承され、また赤道以北旧ドイツ領南洋諸島委任統治国を日本に決定された。 アメリカは日本を仮想敵国とみなすようになり、日本が得た山東省の利権に反対して、アメリカの上院はヴェルサイユ条約の批准を拒否した。そうしてイギリスを抱き込んで日英同盟を破棄させ、日本を追い込む戦略を開始した。
 翌年、中国借款を日英米仏で成功させる。1921年(大正10年)にはワシントン会議が開かれ、日本・アメリカを含む九ヶ国が出席した。その中で、四カ国条約九カ国条約などをそれぞれ締結した。その結果、1923年に日英同盟が解消された。
 翌1924年7月1日にアメリカ合衆国で移民法排日移民法が施行される。この頃から次第に、日本で反米感情が高まった。
   第29代
 ウォレン・ハーディング
 Warren Gamaliel Harding
 共和党
①1921.03.04~1923.08.02
共産主義国家であるソビエト連邦が誕生


   第30代
 カルビン・クーリッジ
 John Calvin Coolidge Jr
 共和党
①1923.08.02~1925.03.04
排日移民法
②1925.03.04~1929.03.04
1929年(昭和4年)10月、アメリカで世界恐慌が起こる。翌年には日本にも影響は波及し多大な影響を受け生糸などの価格が崩落した。この不況状態は1932年(昭和7年)ごろまで続く。
 
   第31代
 ハーバート・フーヴァー
 Herbert Clark Hoover
 共和党
①1929.03.04~1933.03.04



 
   第32代
 フランクリン・ルーズベルト
 Franklin Delano Roosevelt
 民主党
①1933.03.04~1937.01.20
1936年(昭和11年)に日本は第二次ロンドン海軍軍縮会議から脱退し、12月にワシントン海軍軍縮条約が失効したことで両国の軍縮協力関係は終わった。

②1937.01.20~1941.01.20
1937年(昭和12年)から始まった日中戦争はさらに日米関係を悪化させ、10月25日にはフランクリン・ルーズベルト大統領が防疫演説(en:Quarantine Speech)を行い、日本を侵略国であると批難した。また12月12日にアメリカの砲艦パナイ号が、長江を航行中に日本軍の爆撃によって沈没したことはアメリカの反日感情を大きく悪化させた(パナイ号事件)。
1938年(昭和13年)7月26日にアメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告し、1939年(昭和14年)1月26日に失効したことで日米関係は開国以来の「無条約時代」に突入した。7月22日に大本営政府連絡会議で「対米戦争」を考慮に入れた「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が採択された。9月にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発し、両国関係はいよいよ微妙となっていった。1940年(昭和15年)にはアメリカから密使が送られ「日米諒解案」の調整が始まった。しかしフランス領インドシナ北部への進駐(仏印進駐)や9月27日に締結された 日独伊三国同盟はアメリカをさらに刺激した。

③1941.01.20~1945.01.21
1941年(昭和16年)2月から駐米大使として野村吉三郎が赴任し、日米関係の調整に入った。懸案となったのは日中戦争の和平問題、中国大陸からの撤兵問題、三国同盟問題、満州国問題などであったが、4月には日米諒解案に基づく合意が出来つつあった。しかし三国同盟の主唱者であった松岡洋右外相が反対して一旦交渉は白紙に戻った。その後交渉は再開されたが、南進論に基づく南部フランス領インドシナやオランダ領東インドへの進駐計画はさらにアメリカを刺激し、7月25日には在米日本資産の凍結、8月には「日本を含む全ての侵略国」 への石油禁輸に踏み切った。日本側は対米交渉の前途を危惧し、徐々に対米戦争準備を開始した。11月27日、コーデル・ハル国務長官から渡された案(いわゆるハル・ノート)を日本側は「最後通牒」として受け取り、対米戦を決意した。
◆「日米交渉
●1941年12月6日、日本はハワイの真珠湾軍港を攻撃し(真珠湾攻撃)、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦布告した。三国同盟を締結していたドイツやイタリアも追随してアメリカに宣戦、第二次世界大戦はアジア・太平洋地域を含む大規模なものとなった。当初、日本は勝ち進んでいたものの、圧倒的な工業力で軍艦や戦車を整えたアメリカは攻勢に出る。開戦翌年のミッドウェー海戦の敗退ガダルカナル島の陥落と続き日本は圧倒的に不利な状態に陥っていく。
太平洋戦争
●カイロ宣言・・・対日方針を協議するため1943(昭和18)年11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。蒋は会談で、ルーズベルトの問いに答え、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草した宣言案を英国が修正し、日本の無条件降伏と、満州台湾澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。

④1945.01.20~1945.04.12
●ヤルタ会談・・・
1945年2月4日11日クリミア半島ヤルタ近郊で行われたアメリカイギリスソビエト連邦による首脳会談。アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島樺太などの日本領土の処遇も決定し、現在も続く北方領土問題の端緒となった。また、戦後の発足が議論されていた国際連合の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国(後の国際連合常任理事国メンバー)の拒否権を認めた。 
   第33代
 ハリー・トルーマン
 Harry S. Truman
 民主党
①1945.04.12~1949.01.20
1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍による広島への原爆投下8月9日長崎への原爆投下を経て、ついに日本政府は8月14日ポツダム宣言降伏文書)の受諾を決定した。9月2日降伏文書に署名し(日本の降伏)、戦争は終結した。●連合国軍占領下の日本・・・第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間。
◆「日本の分割統治計画・・・第二次世界大戦において、ドイツが降伏後4カ国に分割統治されたように、本土決戦後の日本北海道本州九州四国連合国それぞれが統治しようとした計画。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)・・・太平洋戦争(大東亜戦争)の終結に際してポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の機関である。
②1949.01.20~1953.01.20

日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。
サンフランシスコ講和条約・・・第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。
日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約・・・日本における安全保障のため、アメリカ合衆国が関与し、アメリカ軍を日本国内に駐留させることなどを定めた二国間条約である。いわゆる旧日米安保条約と呼ばれるものであり、1951年9月8日の日本国との平和条約の同日に署名された。1960年に日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が発効したことに伴い、失効した。
警察予備隊・・・1950年昭和25年)8月10日GHQポツダム政令の一つである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により設置された武装組織。1952年(昭和27年)10月15日保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組されて発展的解消した。
 1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争において、アメリカ軍日本駐留部隊朝鮮半島に出動させることとなった。その時点で日本駐留陸軍部隊は第8軍の4個師団(第1騎兵・第7歩兵・第24歩兵・第25歩兵)であり、九州駐留の第24歩兵師団は直ちに移動を開始している。その後、7月上旬には第8軍全部隊が朝鮮半島に移動することとなり、日本における防衛兵力・治安維持兵力が存在しないこととなった。日本に再軍備を認める事は、時の陸軍長官ケネス・ロイヤルから国防長官ジェームズ・フォレスタルに提出された答申「日本の限定的再軍備」で1948年5月に確認された既定の事項だった
   第34代
 ドワイト・アイゼンハワー
 Dwight David Eisenhower
 共和党
①1953.01.20~1957.01.20
フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、アメリカ合衆国は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカ合衆国の傀儡の軍事政権が統治する南ベトナムを建国した。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス1949年独立)、カンボジア1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。

②1957.01.20~1961.01.20
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約・・・1960年昭和35年)1月19日に、ワシントンD.C.で締結された。いわゆる日米安保の根幹をなす条約であり、条約には日米地位協定が付属している(※在日米軍裁判権放棄密約なども付属物とみなす意見もある)。形式的には1951年(昭和26年)に署名され翌1952年(昭和27年)に発効した旧安保条約を失効させ、あらたな条約として締約批准されたが、実質的には安保条約の改定とみなされている。アメリカ軍の日本駐留を引き続き認めた。 
   第35代
 ジョン・F・ケネディ
 John Fitzgerald Kennedy
 民主党
①1961.01.20~1963.11.22
●アイゼンハワーの後を継いで大統領に就任したケネディは、就任直後に、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対してベトナム情勢についての提言を求めた。これを受けて特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。その後ケネディは、アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナムに駐留するアメリカ軍事顧問団を、1961年末には3,164人に増加させ、さらに1963年11月には16,263人に増加させた。併せて1962年2月にケネディは「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、軍事顧問団を、その規模・内容ともに実質的にはアメリカ軍の正規軍と変わらないものとさせた。さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的に、タイ国内の基地に数百人規模の海兵隊を送ることを決定した。
「キューバ危機」
   第36代
 リンドン・ジョンソン
 Lyndon Baines Johnson
 民主党
①1963.11.22~1965.01.20

②1965.01.20~1969.01.20
●アメリカは「自由で平等な国」を自称してきたが、建国以来200年近くの長きに亘りアフリカ系アメリカ人などの少数民族に対する法の上での人種差別が認められてきた。しかし第二次世界大戦中におけるアフリカ系アメリカ人兵士の活躍や、戦後間もない1950年代に入って起きたモンゴメリー・バス・ボイコット事件などをきっかけに、この様な法の上での人種差別をなくそうとする公民権運動が全人種の間で盛り上がりを見せてきていた。この様な動きに対して、人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示したジョンソンは、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、保守(人種差別主義)議員の反対に対して粘り強く議会懐柔策を進めた結果、1964年7月2日公民権法に署名し、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。 
   第37代
 リチャード・ニクソン
 Richard Milhouse Nixon
 共和党
①1969.01.20~1973.01.20
ニクソンとキッシンジャーは国家安全保障会議(NSC)が外交政策の決定権を握るべきだと考えていた。ニクソンの命を受けたキッシンジャーは国家安全保障会議(NSC)のスタッフ(特別補佐官)に若手の外交官、軍将校、国際政治学者をスカウトし、国家安全保障会議(NSC)を組織した。キッシンジャーから国家安全保障会議(NSC)特別補佐官にスカウトされた人物には、アンソニー・レイクローレンス・イーグルバーガーアレクサンダー・ヘイグブレント・スコウクロフトなどがいる。キッシンジャーは、国務省などと激しい権力闘争を行い、ニクソン政権では、国家安全保障会議(NSC)が外交政策の決定権を独占することとなる[4]。とくに、ウィリアム・ロジャース国務長官を重要な外交政策から排除してしまった。キッシンジャーは、国家安全保障会議(NSC)特別補佐官のほかに、大使駐在武官CIA支局長などを国家安全保障会議(NSC)の手足として用いていた。
1971年にはニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に二度訪問、周恩来と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける。一方で、この中華人民共和国との和解を交渉カードとして、ベトナム戦争終結に向けた北ベトナムとの秘密停戦交渉や、ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。
日本については、経済大国である以上政治・安全保障両面でも大国として台頭しようとする欲求を持つだろうとの見方を一貫して示している。特に、1971年の周恩来との会談で日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論は有名である。冷戦後間もない時期の著書である『外交』でも将来日本が政治的に台頭するとの予測を示した。2008年1月の「日高義樹のワシントン・レポート」でも変わらず、「日本は10年後に強力な軍隊を保有しているだろう」と述べ、日本の憲法改正核武装については「日本が決めることだ」と発言している。

米国の核の傘を否定する発言・・・米国の核の傘に対する否定的見解が、個人的見解として米国の政治家、学者等から出ている。ヘンリー・キッシンジャーは「同盟国に対する核の傘を保証するため自殺行為をするわけはない」と語っている。中央情報局長官を務めた元海軍大将スタンスフィールド・ターナー英語版「もしロシアが日本に核ミサイルを撃ち込んでも、アメリカがロシアに対して核攻撃をかけるはずがない」と断言している。元国務次官補のカール・フォードは「自主的な核抑止力を持たない日本は、もし有事の際、米軍と共に行動していてもニュークリア・ブラックメール(核による脅迫)をかけられた途端、降伏または大幅な譲歩の末停戦に応じなければならない」と述べた。その他、以下の米国の要人が、米国の核の傘を否定する発言をしている。 サミュエル・P・ハンティントン(ハーバード大学比較政治学教授)マーク・カーク(連邦下院軍事委メンバー)ケネス・ウォルツ(国際政治学者、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授)エニ・ファレオマバエガ(下院外交委・アジア太平洋小委員会委員)上記のように、米国中枢の人間が個人的立場で他国のために核報復は無いと明言しているが、その場合日本にとって核の傘の意味が低下する。

②1973.01.20~1974.08.09 
   第38代
 ジェラルド・フォード
 Gerald Rudolph Ford Jr
 共和党
①1974.08.09~1977.01.20
●フォードは、1974年11月18日に現職のアメリカ大統領として初めて日本を公式訪問し、昭和天皇と謁見した。また1975年には天皇として初訪米した昭和天皇を迎えている。
 
   第39代
 ジミー・カーター
 James Earl Carter
 民主党
①1977.01.20~1981.01.20
●内外政策の度重なる失敗、特にイランアメリカ大使館人質事件への対応の拙さにより国民の支持を失い、1980年の大統領選挙で共和党候補で元カリフォルニア州知事のロナルド・レーガンに選挙人投票で10倍近い差を、一般投票でも10パーセント近い差をつけられ敗北。1期で政権の座を去った。イランにおけるアメリカ人の人質が解放されたのは、事件から実に444日後の1981年1月20日であり、皮肉にもこの日はカーターが後継のレーガンに政権を譲り、ホワイトハウスから去った日でもあった。
中華人民共和国政策では、前々任者のリチャード・ニクソン大統領の中国への接近政策を受け継ぎ、反対が強かった中華民国との断交を決断。共産主義国家である中国を訪問し、1979年1月1日に国交を樹立した。同月に鄧小平が訪米し、カーターと会談している。
大韓民国に対しては、韓国政府が極秘裏に核兵器開発計画を進めていたこともあって批判的な姿勢を取り、朴正煕率いる軍事政権との関係は険悪だったとされる(このような背景から、朴正煕暗殺事件アメリカ中央情報局(CIA)が関与したとの意見が存在するが、真相は不明である)。
 
   第40代
 ロナルド・レーガン
 Ronald Wilson Reagan
 共和党
①1981.01.20~1985.01.20
●日本との関係・・・1960年代以降の日本は世界有数の経済大国の1つであると同時に、1980年代後半頃まではアジアで唯一安定した民主主義政治が確立された国家でもあった。そして冷戦下で自由主義陣営社会主義陣営の二極化が進むと、アジア太平洋地域において、超大国ソ連の喉元に刺さった小骨のような日本の戦略的な重要性はますます高まった。レーガン政権が日本をアメリカの安全保障上欠かすことのできない「パートナー」として重視した。
●韓国との関係・・レーガンは大統領就任後間もなく、1981年2月に大韓民国全斗煥大統領を最初の国賓としてホワイトハウスに招待し、レーガン同様に反共主義を標榜する全との良好な関係をアピールすることで、反共軍事同盟を重視する意思表示を行った。一方、レーガン陣営は政権移行期から韓国政府に対して慎重に働きかけを行い、死刑宣告を受けていた反政府運動(全斗煥は軍事クーデターにより政権を獲得し、反対派に対し武力による弾圧を行っていた)の指導者・金大中を釈放するよう促した。

②1985.01.20~1989.01.20 
   第41代
 ジョージ・H・W・ブッシュ
 George Herbert Walker Bush
 共和党
①1989.01.20~1993.01.20
●1989年2月24日には、昭和天皇の葬儀「大葬の礼」に出席した。1989年12月3日、地中海におけるマルタ会談では、ソビエト連邦ミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。
●対日関係・・・対日関係では米国国内の双子の赤字解消問題と日本のバブル経済を背景に日米構造協議において多くの自民党議員の票田である農作物とりわけコメ、牛肉などの輸入自由化を求める一方で日本経済の柱となる自動車産業の対米輸出を大幅に規制させるなどアメリカ大統領としては異例といえる保護貿易主義を取ったためジャパンバッシングなる言葉が流行するほどに問題化し日本国内の左派だけでなく各種族議員を中心とする保守派議員等からも激しい反発が起きた。この件がきっかけとなり後に年次改革要望書が作成される事になる。国防関係では湾岸戦争における自衛隊派遣問題や資金援助をめぐり日本政府与党や左派勢力と激しく対立し多額の資金援助を行ったにも関わらず日本への謝意が演説で述べられなかった事などから「金だけ出して人出さない」「大枚を叩かされた上に礼の一言も言われない」など左右両派で議論を呼んだ。
 
   第42代
 ビル・クリントン
 William Jefferson Clinton
 民主党
①1993.01.20~1997.01.20

②1997.01.20~2001.01.20
経済関係においては、歴代政権と違い親中国の傾向が強く、今後の主要な貿易相手国としての重要性を認める一方、日本などの同盟国には貿易問題などで厳しい態度を取った。1998年の中国訪問時には、江沢民総書記(当時)との会談で「台湾の独立不支持、二つの中国及び一中一台の不支持、台湾の国連等国際機関への加盟不支持」を表明した。この訪中の際には日本に立ち寄ることなく帰国したことで、日本からは「ジャパン・パッシング」(日本無視政策)と非難され、日本の政財界に、民主党政権に対する不信感を植え付けることになった。
●またロイド・ベンツェン財務長官の主導により円高政策を強力に推し進め、日本の輸出産業に円高不況と呼ばれる程の深刻な打撃を与えることになった。日本政府に対しては減税や銀行への公的資金の投入、スーパー301条に基づいた市場開放を高圧的に内政干渉にも近い形で要求した。アメリカ政府による日本政府への「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」、所謂年次改革要望書もクリントン政権からである。
しかし政権の後半にかけては対日関係の修復に動き、とりわけ日米の安全保障問題に関して、概ね伝統的な日米関係を基軸としながら、その深化を図った。1995年に策定された、ジョセフ・ナイ国防次官補らによるいわゆる「ナイ・イニシアティヴ」に基づき冷戦後におけるアジア太平洋への関与を再定義、日米同盟をその機軸と位置づけた。1996年には日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)を策定、冷戦後における日米同盟の新たな定義付けを行い、今日に至る日米協力の基礎を敷いた。 
   第43代
 ジョージ・W・ブッシュ
 George Walker Bush
 共和党
①2001.01.20~2005.01.20
●大統領の第1期目は、ほとんどを対外戦争に費やした。任期9か月目の9月11日、ニューヨークとワシントンD.C.で同時多発テロが発生。三日後の9月14日に世界貿易センタービル跡地(いわゆるグラウンド・ゼロ)を見舞い、救助作業に当たる消防隊員や警察官らを拡声器で激励してリーダーシップを発揮し、一時は歴代トップだった湾岸戦争開戦時のジョージ・H・W・ブッシュの89%をも上回る驚異的な支持率91%を獲得した。

②2005.01.20~2009.01.20
日本との関係・・・小泉純一郎の首相在任中には個人的な繋がりをアピールし、「ジョージ」、「純一郎」と呼び合うほどの仲であった。その一方で、在日米軍基地再編米国産牛肉の輸入問題などで日米両政府の見解が一致しない政策もある。また、政権末期には北朝鮮に対して宥和政策に転じるなど、拉致問題で対北朝鮮強硬姿勢を取る日本との歩調のズレが目立った。
 アメリカの歴代政権は同盟国である日本の常任理事国入り自体には積極的な支援を表明してきたものの、2005年7月に入って日本が常任理事国入りの手段とするG4案への「ノー」を断固として表明した。日本だけでなくドイツやブラジル、インドが常任理事国になるというG4案は安保理全体の大幅拡大が前提であり、ドイツのシュレーダー政権がイラク問題その他で一貫してアメリカの方針に反対してきたためかアメリカはG4案には正面から反対した。  
 2007年8月、アメリカ中西部ミズーリ州のカンザスシティで行った演説において、「敵は自由を嫌い、アメリカや西欧諸国が自分たちをさげすんでいることに怒りを抱き、大虐殺を産み出した自殺的な攻撃を繰り広げました。どこかで聞いた話のようですが、私が述べる敵とは、アルカイダではなく、9.11テロでもなく、オサマ・ビンラディンでもなく、パールハーバー(真珠湾)を攻撃した1940年代の大日本帝国の軍隊のことです」。第二次世界大戦前の日本について「民主主義は日本では決して機能せず、日本人もそう思っているといわれてきたし、実際に多くの日本人も同じことを信じていました。民主主義は機能しないと」、「日本の国教である『神道』があまりに狂信的で、天皇に根ざしていることから、民主主義は日本では成功し得ないという批判もあった」と述べている 
   第44代
 バラク・オバマ
 Barack Hussein Obama II
 民主党
①2009.01.20~2013.01.20

②2013.01.20~2017.01.20
●日本との関係・・・日米安全保障条約を結ぶなどアメリカと関係の深い日本との間では、沖縄県の普天間基地移設問題などで民主党政権に移行した日本政府との間で軋轢が生じた。2009年11月13日に来日(翌14日まで滞在)。日本滞在では鳩山由紀夫首相主催の晩餐会と鳩山首相との首脳会談で「日米安保」について会談した。この会談でオバマは、鳩山が敬愛する第35代大統領ジョン・F・ケネディの著作『勇気ある人々』の初版本を持参しプレゼントしている。会談後の共同記者会見で、オバマは、日本人記者からの、原爆投下の歴史的意義とその選択は正しかったと考えるのかという質問の英訳に対して、被爆地を訪問できれば光栄だと答えてから、「次の質問は何でしたか?」と言い、記者が英語で「原爆投下の歴史的意義…」と言いかけると、「No, there were three sets of questions, right? You asked about North Korea?」と発言をさえぎって、質問の一部に対する回答は無かった。皇居御所で天皇・皇后と昼食会など準国賓並みの待遇を受けた。このとき天皇と握手した際に最敬礼に近い角度で深々とお辞儀をしたが、米国内では「大統領が他国の君主に対して頭を下げるのは不適切」との議論が起こり、話題になった。このお辞儀についてケリー報道官は11月16日の記者会見で「天皇に対する尊敬の表れ」と述べ、問題はないとし、さらに「日本の国家元首と初めて会う際に敬意を示すことは、大統領にとって自然な振る舞いだ」と述べた。 2010年11月13日、菅直人内閣総理大臣との日米首脳会談で、日本の国連安保理常任理事国入りを支持することを表明した。また、ロシアや中国との領土関係問題での対応に苦慮する日本政府の立場を支持したり、北朝鮮による砲撃事件を契機として安全保障面での協力関係強化を主張するなど、日米同盟を基盤とした関係強化を重視した。
【現職米大統領初の広島訪問】伊勢志摩サミット出席後の2016年5月27日、安倍晋三内閣総理大臣とともに、現職のアメリカ大統領として初めて広島平和記念公園を訪問した。広島平和記念資料館を視察後、慰霊碑に献花し、「人類が悪を犯すことを根絶することはできないかもしれない。しかし、大量の核兵器を持つ、アメリカなどの国々は恐怖から脱却し、核兵器のない世界を追求しなければならない」として、「核兵器なき世界」に向けた所感を述べた。また、「広島に原爆が投下された、あの運命の日以来、私たちは、希望を持てるような選択を行ってきた。そして、アメリカと日本は、同盟関係をきずいただけでなく友情を育んできた」として、日米同盟が世界平和のために果たしてきた役割の重要さを強調した
●中国との関係・・・オバマ個人としては、異父妹の夫が中国系カナダ人であり、また異母弟にも中国人妻と結婚している者もいることから親戚筋を通じて中国と関わりを持ってはいる。政権発足当初当初は、中華人民共和国との関係を深めようとする関与的な協調路線を採ったため、「親中派」であると評された事もあった。米中戦略経済対話の冒頭演説では、中国の思想家、孟子の教えを引用し、米中両国の相互理解を促した[注 11]。また米中が緊密な協力関係を結ぶ新時代の幕開けへ向け、気候変動や自由貿易、イランの核問題など多くの課題で協力していくことで合意した。このような協力関係はG2と呼ばれた時期もあった。2009年の米中首脳の会談の時点では、チベット新疆ウイグルの独立問題や、中華人民共和国と中華民国の間における、いわゆる「台湾問題」では、中華人民共和国の立場を尊重し、それに対し中華人民共和国の胡錦涛主席は「アメリカ側の理解と支持を希望する」と述べた。他にオバマはダライ・ラマ14世の訪米での会談を見送っており、人権派議員らに「北京への叩頭外交だ」と批判された。しかしオバマ政権は、人権や台湾問題の処遇で中国と対立したブッシュ前大統領と同じく、2010年に入ると台湾へ総額64億ドル(約5800億円)に上る大規模な武器売却を決定するなど台湾への肩入れを強めた。2010年2月18日にオバマは訪米したダライ・ラマ14世と会談した際、中国政府と中国共産党は会談以前から猛烈な抗議と非難を行ったが、アメリカ政府は中国の抗議に取り合わない姿勢を表明していた。その後も中国政府は、オバマとダライ・ラマの会談に対して最大限の非難を繰り返した。2010年9月には、東アジアの軍事バランスの変化を重要視するアメリカとASEAN諸国との共同声明において、南シナ海の資源を狙って軍事活動を行う中国の動きを牽制する内容が盛り込まれた。

   第45代
 ドナルド・ジョン・トラン
 Donald John Trump 
 共和党
①2017.01.20~ 
対アジア
 アジア太平洋での海洋安全保障については、2015年9月3日にラジオで司会者から「中国日本フィリピンの船を沈めたら、どう対応するか」と聞かれたときは、「相手に考えを知られたくないから答えない」「『これをする』『ここを攻撃する』と言ってしまうのがオバマ大統領の問題。」と明言しなかった。また、「中国の行動をきっかけに米国が第三次世界大戦を始めるとは考えない」「中国をよく理解している」「中国とは良いビジネスを重ねてきた」として「米国は中国に対して貿易上の影響力を持っている。圧力をかけて譲歩を引き出すことができる」とし、尖閣諸島を中国が占領した場合も「答えたくない」としている
 また、2016年2月25日テキサス州でのテレビ討論会では「日本、韓国ドイツ、など全ての同盟国を守ることはできない」とし「もっとお金を払わせたいんだ」と、在日・在韓米軍の駐留費用の負担増を求める考えを示した。
 3月10日フロリダ州では、社会保障の財源について司会者から聞かれると、「狂気じみた北朝鮮が何かするたびに米国は艦船を派遣するが、事実上、米国が得るものは何もない」と話し、アジア地域を含む在外米軍の駐留経費を削減する可能性に言及した。
 3月21日、ワシントン・ポストによるインタビューにおいて、人件費を除いた日韓の米軍駐留経費のうち、50%を日韓が負担していることを指摘された際、「50%? なぜ100%ではないのか?」と答え、海外に基地を有することで米国は利益を得ているかと問われた際には、「個人的にはそう思わない」「米国はかつての地位にはないと思う。米国は大変強く、大変豊かな国だったと思うが、今は貧しい」とした上で、それにも関わらず巨額の予算を自国のためではなく外国の防衛のために投じていると述べた
 3月26日のニューヨーク・タイムズのインタビューの中で、記者から「日本は世界のどの国よりも多額の駐留支援金を払っている」と指摘されると、「払っているが、依然我々が負担しているコストよりも遥かに少ない」と反論し、「米国には日韓の防衛のために巨額の資金を費やす余裕はない」と主張した。その上で、日韓が駐留経費の負担額を大幅に増額しないのであれば、「喜んでそうするわけではないが」、在日・在韓米軍の撤退も辞さないと明言した。更に、NATOや日米等の防衛条約について「非常に不公平」であるとして、再交渉する意向を表明した。
 更に、同インタビューの中で、「米国がこのまま弱体化を続けるなら、私が議論するかどうかとは無関係に、日韓は核兵器の保有を望むようになるだろう」「日本が北朝鮮の核の脅威にさらされた場合に、日本が核兵器を保有することは米国にとってそんなに悪いことではないだろう」と述べると共に、記者の「(北朝鮮が何をしでかすかわからないから)日本が自分たち自身の核兵器を必要とするのも分かるし、日本は米国に頼るばかりではいられない…(というわけか)」との発言に対して「本当にその通りだと思っている。特に、北朝鮮の脅威があるから。北朝鮮は日本に対して非常に攻撃的だ。北朝鮮は中国とイラン以外のどの国に対しても攻撃的なんだ」と答え、日韓の核武装に反対しない考えを示唆した
 中国日本に対しては、大統領選出馬表明会見の際にも「中国、メキシコ、日本、その他多くの場所から、仕事を取り返す。私は我々の仕事を取り返し、我々にお金を取り返す」(I’ll bring back our jobs from China, from Mexico, from Japan, from so many places. I’ll bring back our jobs, and I’ll bring back our money.)と言及がある。大統領選勝利後の初の会見でも中国と日本とメキシコなどが貿易不均衡をもたらしてると問題視し、大統領就任後も中国と日本は不公平な貿易を行ってると批判している
 出馬会見では、特に中国への対抗姿勢を鮮明にしており、「中国との貿易交渉で彼らに勝ったことがありますか?。彼らは我々を殺そうとしてるが、私は彼らにいつも勝つ」( When was the last time anybody saw us beating, let's say, China in a trade deal? They kill us. I beat China all the time.)「私は中国が好きです。私はちょうど中国の誰かに1500万ドルでアパートを売りました。私が彼らを嫌うと思いますか?」( I like China. I sell apartments for— I just sold an apartment for $15 million to somebody from China. Am I supposed to dislike them?)「私は中国のことは大好きです。中国から世界で最大の銀行(中国工商銀行)がやってきたが、米国本部がどこにあるか知っていますか?このビルの中ですよ。トランプ・タワーです。だから中国は大好きですよ」( I love China. The biggest bank in the world is from China. You know where their United States headquarters is located?. In this building, in Trump Tower. In this building, in Trump Tower. I love China.)「みんなは私に中国が嫌いなんですかと聞きます。違います、私は彼らが大好きです。だが彼らの指導者たちは我々の指導者たちよりも遥かに賢く、これでは我々は持ちこたえれません」( People say, “Oh, you don't like China?” No, I love them. But their leaders are much smarter than our leaders, and we can't sustain ourself with that.)と発言している。一方でかねてから中国とのビジネス上の関係を強調しており、「中国は偉大だ。中国が好きだ。われわれは中国とビジネスをするべきだ。もっとうまくやっていけるはずだ」と発言し、大統領選勝利後は電話会談で習近平中国国家主席に対して「中国は偉大で重要な国であり、米国との互恵関係を実現できる」と語ったと報じられ、トランプ側も声明で祝電に感謝して「今後両国は最も強固な関係を築きたい」と述べたと発表した。為替などの問題で中国に国際ルール順守を求めると、「関係改善すべき最も重要な国の1つ」として中国とは米中双方の利益となる関係を築くと表明している
 トランプの対中国姿勢を批判する者は、トランプが中国に8社もの合弁会社を所有してその提携先には中国共産党の幹部が経営する国有企業もあることや、トランプが中国の国営銀行に多額の債務を抱えてること、トランプがシカゴのトランプ・インターナショナル・ホテル・アンド・タワーなどで中国の鉄鋼を使用し、新ビル建設工事にあたって中国人投資家へ出資を募って彼らに向けて迅速にビザが発行される政府プログラムの利用を勧めていたことを取り上げ「安全保障を損ないかねない」と批判したり、トランプブランドの商品の産地がメイド・イン・チャイナやメイド・イン・メキシコであることを問題視し「全製品をアメリカで生産せよ」と非難するなどしている。 これに対しトランプは、中国やメキシコの通貨が安くなっているためにアメリカブランドがアメリカで生産できなくなってしまっているなどの説明を行っている。
 日本については、出馬当時から中国やメキシコと並べ、「米国から雇用を奪った国」として責めたてるなど、「ジャパンバッシング」の急先鋒であり、「日本人と日本企業の競争力は尊敬しているが、好意は抱かない」と発言したこともある。出馬会見では、「彼ら(日本)は、百万台以上の日本車を送ってくるが、我々はどうだ?最後にシボレーを東京で見たのはいつだ?存在しませんよ。彼らは我々をいつも打ち負かしてきた」と発言している。また、日本が米国産牛肉の輸入に課してるものと同率の関税を日本からの自動車輸入に課すべきとしている[197]。大統領就任後も自動車分野での日本の市場開放を要求している
 1987年から日本をライバル視した言動で知られ、1988年には「日本は我々を愚か者に見せようとしている。日本が同盟国なら我々は敵と直面したくない」、1989年ロックフェラー・センター三菱地所に買収された際は「ニューヨークを吸い尽す日本を止めなくてはならない」、1993年にも日本が全面的な市場開放をしなければ日本製品をボイコットすべきなどと発言していた
 為替政策についても批判しており、たびたび「日本の度重なる円安誘導のせいで、友達は高いキャタピラーではなく、コマツトラクターを購入した」、「日本の安倍は(米経済を)殺す者だ、やつは凄い。地獄の円安でアメリカが日本と競争できないようにした」(Abe from Japan, who's a killer, he's great. He's already knocking the hell out of the yen)などと発言している。ウォールストリート・ジャーナルは「確かに円安は日本の輸出の助けとなっているが、日銀の金融緩和政策は内需拡大とインフレ目標実現のためで、輸出促進のためではない。それに、コマツは米国内で何千もの雇用を創出している」と指摘するなど、論理の粗雑さが指摘されている
 日米安保条約についても、アメリカ防衛の義務を日本が負っておらずアメリカが日本を防衛する義務を負っていることに不満があると見られる。1990年には「日本は石油の7割近くを湾岸地域に依存しているが、その活動は米軍が守っている。日本は米軍に守られて石油を持ち帰ってアメリカの自動車メーカーを叩きのめしている」「日本の優れた技術者はビデオデッキや車を作り、アメリカの優れた技術者はミサイルを作って日本を守っている。日本にコストを弁償させるべきじゃないか」と発言。
大統領選挙出馬後には、
“If somebody attacks Japan, we have to immediately go and start World War III, OK? If we get attacked, Japan doesn't have to help us.”
(「もし誰かが日本を攻撃したら私たちは即座に第3次世界大戦を始める、OK?だが、我々が攻撃を受けたら日本は私たちを助けなくてもいいんだ。」)

“If Japan gets attacked, we have to immediately go to their aid, if we get attacked, Japan doesn’t have to help us.”“That’s a fair deal?”
(「もし日本が攻撃されたら私たちは直ちに救援に行かなくてはならない。もし私たちが攻撃を受けたら日本は私たちを助けなくてもいい。」「この取引は公平なのか?」)

との発言が伝えられている

       編集:石 戸 勝 夫

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