カイロ会談、ヤルタ会談、ポツダム宣言そして終戦
    Cairo Conference and Decularation,Yalta Conference, Potsdam Declaration and the End of War

                           編集:石 戸 勝 夫

カイロ会談とカイロ宣言
                       
カイロ会談(蒋介石、ルーズベルト、チャーチル)

 1943年(昭和18年)11月22日から、対日方針を協議するためエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。
 蒋は会談で、ルーズベルトの問いに答え、
天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草した宣言案を英国が修正し、日本の無条件降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。
【カイロ宣言の日本語訳】
 「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」總理大臣ハ各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ會議ヲ終了シ左ノ一般的聲明發セラレタリ
 「各軍事使節ハ日本國ニ對スル將来ノ軍事行動ヲ協定セリ
 三大同盟國ハ海路、陸路オヨビ空路ニヨリソノ野蠻ナル敵國ニ假借ナキ彈壓ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右彈壓ハ旣ニ增大
シツツアリ
 三大同盟國ハ日本國ノ侵略ヲ制止シ且コレヲ罰スル爲今次ノ戰爭ヲ爲シツツアルモノナリ右同盟國ハ自國ノタメニ何等ノ利
得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土擴張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ
 右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト竝ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國ガ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ
日本國ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本國ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ驅逐セラルベシ
前記三大國ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且獨立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
右ノ目的ヲ以テ右三同盟國ハ同盟諸國中日本國ト交戰中ナル諸國ト協調シ日本國ノ無條件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ續行スベシ」 
蒋介石のカイロ会談参加】
 この会談に蒋介石を出席させたのはルーズベルトであり、日本と休戦協定・単独講和を結ぶ事で抗日戦を断念して連合国の戦線から脱落する恐れがあった中国を米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、台湾の返還や常任理事国入りさせて激励させて士気を高めさせるためと言われている。大戦中、親英米派である蒋介石が英米からの支援が少ないことに不満を持っており、日本に寝返るのではないかと噂が絶えなかったが、支援がふんだんに貰えると聞いて夫人同伴でカイロに来た。そして日本を無条件降伏させるまで戦う事を約束し、蒋介石が日本と停戦する事を禁じた
 呂秀蓮副総統も「1943年のカイロ会議は当時のルーズベルト大統領が中国と日本が単独講和をし、蒋介石・元総統が講和を安易に受け入れるのを避け、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還させるためのものであった。」と述べている。このような政策を通じて蒋介石を指導者とする国民政府の支配する中国を戦後のアジアにおける安定勢力とするというアメリカの構想の実現に基礎を与えようとした。カイロ会談に蒋介石の出席にはルーズベルトとは正反対にチャーチルが反対していた。
 この会談後、中国は国際社会における声望を一定の位置に高める事となり、チャーチルの回顧録によると、カイロ会談は蒋介石もしくは宋美齢にとっては権力の絶頂だったと言われている。ルーズベルトは日本に対する差別意識を露骨にする一方、中国に対しては過剰な期待をかけていた
 この段階で蒋介石夫妻は自国の戦局についてルーズベルトには明かしておらず、ルーズベルトも中国戦線の実態を認識していなかった。しかし期待とは裏腹に中華民国は開戦以来から対日戦に劣勢であり、またアメリカの度重なる要請にもかかわらず中国共産党軍との連携にも消極的であり、ともすれば国共内戦が再発しかねない状態であった。また1942年の日本軍がビルマの援蒋ルートを遮断させた事により米英からの軍事支援はヒマラヤ越えのみとなり装備・物資とも不足に陥っており、1943年になっても戦局は不利であった。カイロ会談後の12月6日にルーズベルトは中国へ派遣されている外交官やジョセフ・スティルウェルから、次日本軍に攻勢されれば国民党政府が倒壊すると冷水を浴びせられ、スティルウェルは中国本土からアメリカ軍の日本本土への空襲は日本陸軍の猛烈な反撃を招くと共に日本軍の内陸部侵攻を招くとして、中国本土からの空襲計画に反対した。カイロ宣言は翌年の日本陸軍の大攻勢である大陸打通作戦につながった。この日本軍の攻勢により中華民国軍は単独での対日戦線を維持することがほとんど不可能な状態に陥ったが、この時期にすでにアメリカの軍事戦略は中国大陸を反攻拠点とする当初の計画から、マリアナ・フィリピン経由での日本攻略に変更されていた。ルーズベルトにはこの時点で蒋介石政府やカイロ宣言の政治的効果についての戦術的誤算があり、大陸打通作戦以後、連合国の重要会議であるヤルタ会談とポツダム会談に蒋介石が招かれる事はなくなった。1942年には援蒋ルートが遮断され、1944年に大陸打通作戦で国民党軍が壊滅的な打撃を被り、圧倒的に戦局が不利である蒋介石は同年には裏で繆斌を通じた対日和平工作を行うことになった。

ヤルタ会談
             

 1945年(昭和20年)2月4日~11日の間、ソ連(ロシア)のヤルタで会談が開催され、アメリカ大統領ルーズベルト、ソ連指導者スターリン、イギリス首相チャーチル、との間で対日本戦についての秘密協定(「ヤルタ協定」又は「極東密約」ともいう)が交わされた。
 
1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。  ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた 。この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経てソ連が対日参戦することが取り決められた。
 
アメリカからソ連に対する対日参戦要請は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日にソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフにルーズベルト大統領とハル国務長官から出されている。このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフに独ソ戦への集中と日ソ中立条約の制約から不可能と回答するよう訓令が送られた。しかしその10日後にはスターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した。スターリンが具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことをハルやスターリンの通訳が証言している。ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった
 
ドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、協定に従ってソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、千島列島等を占領した。しかし、ソ連参戦の翌日(1945年8月10日)に日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告したため、戦争末期(9月2日の降伏文書調印まで)のきわめて短期間のソ連の戦果に対して日本の領土を与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった。
 なお、1956年に共和党アイゼンハワー政権は(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効であるとの米国務省公式声明を発出している。また、アメリカ合衆国上院は、1951年のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議においてこの承認は合衆国としてヤルタ協定に含まれているソ連に有利な規定の承認を意味しないとの宣言を行っている
 この会談以後の戦後体制をしばしばヤルタ体制と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が開始されたと言われている。
 2005年5月、アメリカのブッシュ大統領は、対独戦勝60周年記念式典への出席のためのヨーロッパ歴訪中、訪問先のラトビアで冷戦下のヨーロッパをめぐる歴史認識に関する演説を行い、
ヤルタ協定を東欧諸国における圧制を生むなどした諸悪の根源と非難している。またヨーロッパの分割を認めたことに、アメリカも一定の責任を持っているとの認識を示した。

 1945年(昭和20年)4月05日 ソ連が日ソ中立条約の不延長を通告。
 1945年(昭和20年)4月12日 ルーズベルト米大統領急逝、ハリー・S・トルーマン副大統領が第33代大統領に昇格。
 1945年(昭和20年)4月16日 トルーマン米大統領が「日独の無条件降伏まで戦う」と声明。

サンフランシスコ会議
 1945年4月25日から6月26日にかけて、アメリカ合衆国サンフランシスコで開かれた連合国会議。正式には「国際機構に関する連合国会議」。
 この会議はダンバートン・オークス会議で提起された国際連合憲章を採択して国際連合設立を決定し、第二次世界大戦の戦後処理と国際平和問題について討議を行うものであった。この会議はアメリカ、イギリス、ソビエト連邦、中華民国によって招集され、1945年3月1日までに連合国共同宣言に署名した42カ国が招請された。ただし会議開幕後にはアルゼンチン、デンマーク、そしてソ連の構成国であるウクライナとベラルーシが招請され、会議参加国は50カ国となった。参加資格を有していた国のなかで、ポーランドはロンドン亡命政府とルブリン政府の対立から代表を一元化できず、代表を派遣できなかった。しかし、その後に単一の政府が成立し、憲章の署名には加わったため、原加盟国は51カ国となった。

 1945年(昭和20年)6月05日 ドイツの統治権が連合国4カ国(米英仏ソ)に掌握された事が宣言さ
                   れる。(ベルリン宣言)
 1945年(昭和20年)6月26日 サンフランシスコ会議で国際連合憲章が調印される。

 1945年(昭和20年)7月16日 アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴードの実験場で史上初の原子爆弾
                   の爆発実験に成功(トリニティ実験)。
 1945年(昭和20年)7月21日 アメリカ大統領トルーマンが原子爆弾使用を承認する。

ポツダム宣言
              ポツダム会談
【概要】
 1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。
 ナチス・ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳(アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談)。ポツダム宣言は、この会談の期間中、米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石国民政府主席の共同声明として発表されたものである。ただし宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。
 1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された。
【対日降伏勧告】
 アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発、日本本土侵攻作戦、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲をともなうことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた。
 一方で国務次官ジョセフ・グルーをはじめとする国務省内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、「条件付き無条件降伏」を提案していた。5月28日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した。一方陸軍長官ヘンリー・スティムソンは無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーやジョン・マックロイ陸軍次官補、ハーバート・フーヴァー元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった。
(参考)「生かせなかった皇室保持シグナル 謀略警戒、遅れた終戦決断」(産経ニュース)
 1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スチムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もしわれわれが通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方のないことだと思いますよ。」「われわれがよしとする条件を日本政府に対して説明してやることです。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存することを許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めてやるということです」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スチムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷がつくという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本にたいするメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたもと見られている。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった。
【6月26日の対日計画案】
・我々が日本に対して行使しようとしている力は多様かつ圧倒的である。この力を行使した場合、日本の破壊は不可避であり徹底的となる。
・連合国は世界征服の挙に出て国を欺いた者達の権力と勢力を除去する。
・日本の主権は日本本土諸島に限定され、日本が再び戦争を起こし、それを支持することができないよう無力化する。
・我々は日本の国を滅亡させ、日本民族を絶滅させる意志を持たない。
・日本から軍国主義の影響が排除された場合、我々は日本が生存に必要な産業を保持することを認める。やがては日本と互恵的な貿易関係を構築することを認める。
・前記の目的が達成され、日本国民の多数を代表する平和的政権が成立すれば、連合軍は日本から撤退する。
 この降伏勧告はアメリカとイギリス、そしてもしソ連が参戦していた場合にはソ連の首脳もくわえた名義で公表されるとしていた。またスティムソンは個人的意見として現皇統における立憲君主制を排除しないことを付け加えれば降伏は実現しやすいであろうと述べた。また宣言発表のタイミングは日本本土侵攻作戦が行われる前、日本が狂信的な絶望に追い込まれる前に行う必要があるとした。またソ連の参戦が行われても、ソ連軍の侵攻があまり進展しないうちに行うのが望ましいとした。委員会ではこの勧告が実際に行われて失敗した場合でもアメリカ国民の戦意を高める効果があり、失敗しても害はないと判定され、スティムソンの原案をグルーとフォレスタルは承認した。
【天皇をどうするかの議論】
 三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせることとした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官のユージーン・ドーマン、国務省極東課長ジョセフ・ウィリアム・バランタインらによって構成されていた。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドーマンは欠席したため、バランタインを除いたメンバーはすべて陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドーマン案を元としており、天皇制の存続についてはきわめてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、ふたたびスティムソン案を中心として討議されることとなった。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に蒋介石を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。
 翌6月28日の会議でドーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった。ドーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言にたいするアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた。1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった。
 スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDのチャールズ・H・ボーンスティール3世が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった。
【直前の修正】
 7月3日、ジェームズ・F・バーンズが新たな国務長官に就任した。バーンズはトルーマンに信頼された私的な助言者であり、彼の就任はスティムソンの大統領に対する影響力を低下させた。バーンズは対日強硬派であり、国務次官補アーチボルト・マクリーシュをはじめとする親中国派は巻き返しを図った。7月6日、国務省はスティムソン草案のさらなる改訂を要求し、7月7日の幹部会で草案が「日本」「日本政府」に呼びかけていた部分が「日本国民」に変更された。省内の混乱を見たバーンズはコーデル・ハル元国務長官に相談し、直接天皇制に言及した天皇制保障条項を一旦削除することを考えるようになった。バーンズは占領の際に天皇制が利用できるかどうかを見た上で、天皇制の存続をアメリカが決定できるようにと考えていた。
 ポツダム会談の公式日程では対日問題は議題とならなかった。ただし、会議が始まる直前の7月17日正午頃にスターリンは対日戦参戦の意向をトルーマンに伝えた。トルーマンはこれによって「それ(ソ連の参戦)がおこれば日本は終わりだ」と喜んだが、次の日には原爆実験成功(トリニティ実験)の報せを受け取ったことで「ロシアがやってくる前に日本はつぶれる」と、ソ連の力を借りずに日本を降伏させる方針に転換した。一方でスティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第二項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」とあらため、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した。トルーマンは公表の意思を固め、リーヒの提唱した変更を行うと決定した。スティムソンは天皇制に言及しないことが日本の降伏拒否を招くのではないかと懸念し、もし日本側がこの一点で戦い続けるならば大統領が外交チャンネルを通じて「口頭で保証」を与えるように提案した。トルーマンはスティムソンの意見を承諾し、後の国務省による回答につながることになる。
 7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。7月26日、「ポツダム宣言」として知られる降伏勧告がトルーマン、チャーチル、蒋介石の名で発表された。また宣言文はポツダム協定の付属議定書に「検討されたアメリカ提案」として付記された。
(降伏勧告の内容】
①吾等(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
②3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
③世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
④日本が無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
⑤吾等の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、吾等がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
⑥日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないから。
⑦第6条の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領
⑧カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない。
⑨日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。
⑩日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること。民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
⑪日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
⑫日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退する。
⑬我々は日本政府が全日本軍の無条件降伏を宣言し、かつその行動について日本国政府が示す誠意について、同政府による十分な保障が提供されることを要求する。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅のみ。
【トルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRET】
 日本の降伏が「無条件降伏」であるか否かは論争がある。「無条件降伏」についてはいくつかの見解があるが、軍隊の無条件降伏という点については一致した見解がなされている(軍部の無条件降伏後も各地で散発的・組織的な戦闘が発生した)。
 国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5条には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第十三條及び降伏文書第二項にも使用されているがこれは何れも日本の軍隊に関することであって、これが為にポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を喪うものであると解すべきではない。なお日本は国体護持の条件を提示したが連合国からの回答はなく、日本政府は第12条に含意されているものと解釈してポツダム宣言を受諾している。
 そもそもルーズベルトによる無条件降伏による「国家間の戦争終結方式」の提起は、英国・ソ連など連合国として参戦していた諸国を困惑させるものであった。またアメリカ政府内でルーズベルトとトルーマンの「無条件降伏」観に違いがあり、トルーマンの対日政策も当初は「条件付無条件降伏論」に立脚しながら占領初期に「条件」の契約性の否認を表明しており揺れがある。トルーマンは、多くの側近の助言を受け日本に対する降伏要求については、無条件降伏の原則に一部修正を加え、ルーズベルトが否定した条件付降伏論の立場に立って対日降伏勧告のポツダム宣言を発した。 連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカーサー元帥に対し行われた通達において、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある
【領土問題】
 ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア)については対日宣戦布告の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは日ソ中立条約の廃止通告後の処理に違反している。ソビエトはポツダム宣言や降伏文書に参加したもののサンフランシスコ平和条約に署名しておらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。ソビエトは1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、とくに北方四島については1855年の日露和親条約以来一貫した日本領土であり平和的に確定した国境線であったため、台湾や満州・朝鮮などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣言に明白に違反している。一方でソビエトはヤルタ会談における協定による正当なものとする。その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが日ソ共同宣言の段階で停滞しており、現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。
 中華人民共和国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しておらず(当時国家として存在しなかった。成立は1949年(昭和24年))、サンフランシスコ平和条約に署名もしていない。直接の領土に関する規範は日中共同声明および日中平和友好条約が基礎であり、日中共同声明において(台湾について)ポツダム宣言8項に立脚して処理することと声明し、日中平和友好条約において領土保全の相互尊重を正式に締約した。また中華民国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しているがサンフランシスコ平和条約に参加しておらず、直接の領土に関する規定は日華平和条約(1952年8月5日発効)による。ただし1972年(昭和47年)9月29日に共同声明発出・平和友好条約締結による日中国交回復のために「終了」(事実上破棄)された。しかし、1968年の海底調査の結果、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、1971年に中国、台湾が領有権を主張しはじめた。
 アメリカは尖閣諸島を日本へ返還する際、中台両国の領有権主張にも配慮し、主権の帰属については判断を避けた。1972年5月に、アメリカニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とする機密文書をまとめた。同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするための知恵だった。この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるかどうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答えるのではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府高官に指示している。
 2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないという立場を強調している。
 1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言について「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある。」という日中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではない。)した。その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政府関係者から繰り返されている。ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処をする義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改時の情勢を鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定をそこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般には解釈されている。なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している。
 2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで記者会見し、尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認しつつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示した。
 2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリントン国務長官は、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示し、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たす」とし、マイケル・マレン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明している。
 2012年11月29日、米上院は本会議で、日米安保条約第5条に基づく責任を再確認する」と宣言する条項を国防権限法案に追加する修正案を全会一致で可決した 。
 2012年12月14日、中国機が記録上初めて日本の領空を侵犯した。飛行高度60メートルとされ、侵犯した領空は尖閣諸島上空であり、日本政府は中国政府に抗議した。また米国政府は中国政府に懸念を直接伝え、日米安全保障条約の適用対象であることなど、従来の方針に変更はないとも伝えたことを国務省は同日記者会見で明らかにした。
 2013年1月2日、前月20日アメリカ下院、翌21日アメリカ上院で可決された尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用対象でることを明記した条文を盛り込んだ2013年会計年度国防権限法案にオバマ大統領が署名し法案が成立した。
 2013年3月21日、岩崎茂統合幕僚長と、サミュエル・J・ロックリア太平洋軍司令が会談し、尖閣諸島での有事に対処する共同作戦計画を策定することで合意した。2013年7月、アメリカ上院は東シナ海と南シナ海での中国の「威嚇行為」を非難する決議を採択した。
 2014年4月6日、チャック・ヘーゲル国防長官は、小野寺五典防衛大臣との会談で、尖閣諸島は日本の施政権下にあり、日米安全保障条約の適用対象に含まれると明言した。ヘーゲルは2014年4月8日、常万全国防相と会談し、アメリカは日米安保条約などで定められた同盟国の防衛義務を「完全に果たす」と主張した。2014年4月11日、第三海兵遠征軍司令官のジョン・ウィスラー中将は、星条旗新聞で「尖閣諸島を占拠されても、奪還するよう命じられれば遂行できる」と主張した。
 2014年4月24日、国賓として来日したオバマ大統領は、安部晋三内閣総理大臣との首脳会談後の共同記者会見と共同声明で沖縄県尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用範囲内にあるとし、米国が対日防衛義務を負うことを表明した。また、これに先立つ来日前の4月23日、読売新聞の単独書面インタビューに応じたオバマ大統領は、沖縄県尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用範囲内にあるとし歴代大統領として初めてこの適用を明言してる。                                                    
1945年(昭和20年)
  7月28日 ・日本はポツダム宣言を黙殺する声明を出す。
  8月02日 ・ポツダム会談終了。
  8月06日 ・午前8時15分米軍が広島市へ原子爆弾投下。
          
  8月08日 ・深夜、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告。
  8月09日 ・未明にソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始。
         ・午前、ポツダム宣言の受諾の可否について最高戦争指導会議が開かれる。
         ・午前11時02分、米軍が長崎市へ原子爆弾投下。
         
         ・深夜、ポツダム宣言の受諾の可否について御前会議が開催される。
          
  8月10日 ・未明、御前会議で「国体の護持」を条件に日本のポツダム宣言の受諾を決定、連合国側へ打
         電。
         ・午後8時すぎ、その旨を同盟通信社のモールス信号と日本放送協会の海外向け放送が伝える。
         ・モンゴル人民共和国が日本への宣戦布告を表明。
  8月11日 ・ソ連軍が日ソ国境を越えて南樺太へ侵攻。
  8月12日 ・連合国側が、国体護持には明瞭に触れず、降伏後の日本統治について回答(「バーンズ回答」
          )。
         ・満州国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒龍江省鶏西市麻山区)において、日本の哈達河開
         拓団が避難中にソ連軍と満州国軍反乱兵によって攻撃されて集団自決し、421人が死亡した。
        (麻山事件)。
  8月13日 ・バーンズ回答を巡って最高戦争指導会議・閣議が紛糾。
         ・満州国吉林省で南満州鉄道京図線が九台駅と吉林駅の間の小山克で武装した暴民に襲われ、
         日本人避難民 が強姦・虐殺され集団自決した(小山克事件)。
  8月14日 ・午前11時、天皇が御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明。
         ・午後9時、ラジオで「15日正午より重大発表あり」という旨の放送。
         ・午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国側に通知。
         ・午後11時20分、天皇が玉音放送を録音。
          
         ・終戦直後は8月14日が日本政府にとっての終戦の日であった。
         ・満州国興安総省の葛根廟(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチ
         ン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍および
         中国人によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された(葛根廟事件)。
         ・マッカーサー米太平洋陸軍司令官が連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied
          Powers、SCAP)に就任。
         ・大本営が攻勢作戦の停止を発令(自衛反撃は継続)。
         ・中ソ友好同盟条約締結。
8月15日 ・陸軍一部がクーデター未遂(宮城事件)。
         ・日本時間正午に昭和天皇の肉声で読み上げられた終戦詔書がラジオで放送される(玉音放
         送)。日本国民にとっての終戦の日となる(終戦の日)。
          ・鈴木貫太郎内閣総辞職。
   8月16日 ・スターリンがソ連軍の北海道占領を米トルーマン大統領に要求。トルーマンは18日に拒否
         回答。
   8月17日 ・インドネシアのスカルノとハッタ、インドネシア共和国のオランダからの独立を宣言(イン
         ドネシア独立宣言)。
        ・東久邇宮内閣成立。
   8月18日 ・満州国皇帝愛新覚羅溥儀退位。
        ・ソ連軍が千島列島で攻撃開始。
        ・内務省が占領軍向け特殊慰安施設を設置するよう地方長官に通達。
        ・東京に飛来した米軍偵察機を高射砲・零戦で迎撃。
   8月19日 ・大本営が戦闘中止を発令。
        ・ベトナムで親日政権に対しベトミンが蜂起。
   8月22日 ・海軍総隊司令部が戦闘停止を発令。
   8月23日 ・日本陸海軍の復員開始。
         ・ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令(シベリア
         抑留)。
   8月28日 ・連合国軍先遣部隊が沖縄本島より厚木飛行場に到着(26日の計画であったが暴風雨のため2日
         遅れ)。
   8月30日 ・蒋介石・毛沢東による国共首脳会談開催(重慶会談)。
        ・マッカーサーが沖縄本島より厚木飛行場に到着、日本占領の第一歩を記した。
           
        ・ソ連は北海道占領への樺太での軍事行動を停止。
   8月31日 ・米軍主力が横浜・館山に上陸

   9月02日 ・東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終
         結)。
         ・ダグラス・マッカーサー元帥が北緯38度線を境とした米ソによる南北朝鮮の分割統治を発表
        (連合軍軍政期 )。
 ◆YouTube  降伏文書調印式①
 ◆YouTube  降伏文書調印式②
             
  9月03日 ・ソ連軍が日本の北方領土を占領。

マッカサーの回顧録によれば、昭和天皇陛下は
「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」
と述べれたそうである。
                

サンフランシスコ講和条約

 第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国(ただし中国は除く)と日本との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、「サンフランシスコ条約」「サンフランシスコ平和条約」「サンフランシスコ講和条約」などともいう。1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。この条約によって正式に、連合国は日本国の主権を承認した。国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。条約に参加しなかった国との戦争状態は個別の合意によって終了している。

                 


    2014-08-15 編集者:石戸勝夫


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